2024年2月4日「CURE」-剥き出しの表皮

 2024年も2月になってしまった。歳をとるごとに時間を軽減する速度は速くなっていくが、今年は尋常ではない。新年早々色々あったわけで、駆け足でここまで来てしまった気がする。

 まあそんなわけで、これからここでできるかぎり頻繁に映画の品評、とはいかないものの、鑑賞して思ったことをつらつらと書きあぐねていくことを始めたわけだが、なにぶん最初だからどう書けばいいのか分からない。とりあえず、最近見た映画で語りがいのある作品について書いていこうと思う。そもそも映画は語り口が多い方が魅力的なのだから、魅力的な作品を選び出して、勝手にめちゃくちゃなことを言っても誰も文句は言いはしないだろう。

 タイトルにもある通り、第1回は黒沢清の「CURE」だ。結構有名作だから今更感もあるが、邦画をほとんど見ないじぶんからしたらかなり頑張ったのだ。これでも。内容は催眠術で殺人を行う記憶障害の青年をなんとかとっちめようとする刑事の話なわけだが、これはサイコホラーでもスリラーでもない。もはやホラーの領域。めちゃくちゃ怖い。役所広司がこの当時からほとんど老けてないことも怖いが、作品全体に流れる不穏な空気は冷や汗もの。

 なんと言っても、記憶に残るのは犯人の間宮。最初の段階で登場するからネタバレとかではないです安心してください。彼は記憶障害か何かを持っていて、数秒で会話の内容を忘れる。というか、自分の経歴すら覚えていない。さらに自分の顔すら分からない、存在しているだけの、まさに影みたいなキャラクター。だからどんなに彼に質問しても、すべて空回りして、どん詰まる。だがそんな彼にも得意技があって、それが催眠術なのだ。これに引っかかると自分の中でありもしないような動機が形成されて、いつのまにか人を殺してしまう。たいへん恐ろしい催眠術だ。

 例えば女医に催眠術をかけたときなんかは、彼女の内面の、男性への憎悪を駆り立てていた。

 面白いのは、内面のカケラもない間宮が、催眠術で他人の心を勝手に作り替えるという発想だ。役所広司が殺人者本人を取り調べしても、かれらは自身の異常な行動を理解していなかったり、適当な動機づけをして納得してしまっている。そして警察は捜査に行き詰まってしまう。なぜなら殺人事件としてはその時点で完結していて、間宮の関与まで辿り着けないのだから。

 そもそもこの映画において取調べとはなんぞや、と言うと、容疑者の動機やら経歴を問うということに過ぎない。つまり、「あなたは誰か」「あなたはなぜこんなことをしたのか?」といったことだ。つまり他人の、不可視の心や記憶の領域に手探りで入り込むことにほかないらない。そういえば刑法上では傷害致死罪と殺人罪を区別するための要件として「殺意」の有無があるが、やっぱりこの社会も人間の表面だけじゃなくて、こういう「内心どう思ってんの?」というところまで了解されて秩序は保たれているわけで、けれど一方でこの映画みたいに催眠術なんかかけられたらそういう前提のルールが台無しになっちゃうわけだ。

 間宮はつまり他人の心を操作・編集してしまうトンデモ能力を持っているわけだが、当の本人はまったく心を持ち合わせていない。だから取り調べもそもそも成立しない。

 ここで少し話を変えると、この映画において役所広司は奥さんとの関係に悩んでいる。奥さんも記憶障害か何かを患っているらしく、途中で彼はその苦悩なんかを吐露するわけだが、その中で「俺は妻の心が分からないし、妻も俺の心をわかっていない」みたいな(間違ってたらごめんなさい)ことを言う。間宮の内面に対する接近不可能さが、ここにも別のかたちで登場する。さらに、映画の序盤でクリーニング店に行くシーンがあるが、隣に突っ立ってるおっさんがずーーーーーーっとブツクサ独り言を呟き続ける場面がある。しかも店員が服を返しに来た途端にまともな顔してしらーっと退店するわけだ。実際いたらかなり怖い。まあそれはともかく、そのおっさんが何を思ってるのかも、実際彼がどんな生活をしてるのかも、じぶんたち観客よくわからないわけだ。

 つまり何が言いたいのかというと、「人の心なんて結局よくわからないよね?分かった気になるのは、勝手に相手の思ってることを都合よく編集してるだけよね?」ということ。なんなら催眠術かけられた人たちからすれば、自分の心すら自分でよく分かっていない。

 こういうテーマをやってる作品はいくらでもあると思うが、この映画の良いところは、実際に本当によく分からない間宮を登場させたこと。役者さん、演技するの大変だったろうなぁ。内面のない登場人物なんて、普通ありえないわけだよ。ゴジラとかエイリアンだってそれなりの感情はあるのに。

 演じるというと、映画なんていうのも結局は役者のセリフやら仕草、もっと言うとモンタージュ理論みたいなもんを駆使して登場人物の内面を語るわけだけども、この映画の主張だとそんなもんまったく否定されている。ほとんどの登場人物の内面が何度もひっくり返ったりうやむやになったり否定されてるんだから、抒情なんてあったもんじゃない。

 逆に言うと、あらゆる映画っていうのはそういう役者の芝居やら編集の妙でなんとか不可視の領域を表現してきただけなのかもしれない。というか、可視・可聴の領域でしか物語を語れないのであれば、結局はそれ以外の領域は観客に委ねるしかないわけだ。「皆さんヒントは与えましたからあとは勝手にこの人たちの心情を操作・編集してくださいな!」と。そして実際、そういう手続きを経ないとじぶんたちはかれらを理解することができない。

 間宮が催眠術を他人にかけるように観客は映画の登場人物を理解しているし、刑事が間宮を取り調べるように、これもまた観客は映画の登場人物を解釈している。ここまで考えると、この映画が単なるホラーでもなく、もっと優れた、映画に対する自己言及性溢れる実験作に思えてきた。まあでも、これだって間宮と面会する役所広司のような気分で語っているわけだが。

 つまり人間なんて見た目で判断するしかないって話よ。映画でまたひとつ学びが増えた。やったね。

 結論っぽいものも得られたし、というわけで寝ますおやすみなさい。